キングの「ミスター・メルセデス」

 うーん、やはりもうひとつ。

 ぼくはスティーブン・キング信者とまではいかないけど、代表作といわれるものはだいたい読んできた。なかでも「シャイニング」「ザ・スタンド」「IT」あたりはおもろくて、一刻も早くつづきが知りたくて、寝食を忘れて読み耽ったものだ。読み終わったあとの余韻も本物の文学といっていいものだと思っていた。

 ところが90年代に手が届くころからだろうか、どうもキングの書くものから”かがやき”(「シャイニング」読者ならわかるよね)が失われてしまった気がする。私生活では、それまでのアルコール依存にくわえて薬物依存にも陥っていった時期に相当するとのことだ。99年には自動車に轢かれて重症を負う。世界的ベストセラー作家の人生もラクではない。作家にとって、作品の質と私生活上の難儀はどう関係するのか?人それぞれだろうが、キングの場合はどうもマイナスの方向にはたらいたようだ。

 2014年に出たミスター・メルセデスは、作者初の純粋なミステリーものということで、本国では賞もとって売れゆきも悪くなかったそうだ。

 定年退職したばかりの伝説の敏腕刑事のもとに、在職中に逮捕できなかった無差別殺人犯から挑発の手紙が届く。妻子に出ていかれ孤独で無為な生活を送っていた男は、近所の黒人秀才高校生、犠牲者の親族であるちょっと頭のぶっ飛んだ45歳の独身女性とともに、つぎの大量殺人をもくろむ犯人の行動を阻止すべく行動を開始する。ストーリーとしてはこんな話だが、なぜたいしておもしろくないんだろう。いやおもしろくないとはいい過ぎか。いちおう最後まで読んだんだから、もちろんそこらの二束三文小説とはタマがちがうことは認めなければ。

 まず主人公である元刑事をはじめとするチーム各人がそれほど魅力的ではない。本来、私なんか境遇的にも主人公に肩入れできてもおかしくないはずなんだが。なぜ魅力的じゃないかというと、まず登場人物たちの行動にそれほど説得力がないんだ。必然性がみえてこない。敵役のわりとちんけなサイコパス野郎も、アタマのいかれた破滅型のマザーファッカーにすぎないんで、ぜんぜん怖くない。ストーリー的にもそれほど工夫があるわけでもなく、わりと一直線にクライマックスへと向かう。

 また、そもそもキングが描いてきたホラー小説では、闘う相手がこの世の住人ではないバケモノであることが多い。そんな相手にたったひとりで立ち向かっても勝ち目はない。そうして本来は異質な相手との共闘の必然性が生じる。そうして生まれる信頼、友情、裏切り、などの要素もわれわれの胸を熱くさせたものだった。しかし超越的な存在が登場しない本作の悪役は、ただのイカれたサイコパス。この設定の弱さが作品の弱さになった気がする。

 実はこの話は3部作の1話目で、本国では2、3とすでに発刊されているそうだ。つづきを読むかどうかは微妙だなあ。 

ブリューゲルのバベルの塔

 思いのほか小ぢんまりした絵だ。モノキュラーがなければ細部はおよそ判然としない(持っていって大正解)。この塔、とうてい完成はしないだろうと納得させる凶々しさを放っていた。

 東京都美術館で「バベルの塔」展が開催されている。ウィーンの美術史美術館のほうにあるバベルの塔は現地でみたことがあるが、こちらは初見。ブリューゲルバベルの塔っていったら、ある程度教養のある人たちの誰もがまっさきに思いうかべる絵だろう。

 バベルの塔そのものについては、「人間の奢りに対する神の怒りをあらわしたもの」「言語がたくさんあることの説明」などなどいろいろな解釈があるようなんだけど、ホントのところはどうなんだろうね。

 じゃあブリューゲルさんはなんでこんな絵を何枚も書いたの? それもよくわかってないみたい。そもそもブリューゲルについては全体に信頼できる資料があまり残ってないらしいんだよね。まあフランドルやネーデルラントなんて、イタリアやフランスにくらべ、あるいはイギリスにくらべたって文化的には昔もいまも辺境っていったら辺境だから、まあそんなものなのかもしれない。

 おそらくカトリックプロテスタントの対立だとか宗派がどうしたとかいう背景がおそらくはあるんだろうけど、われわれ日本人とってはどうでもいい話だ(ごめんね、異教徒で)。

 だいたいこの人の絵って、人がいっぱい出てきて、それぞれがいろんなことしてて、一目みただけじゃぜんぜんなんだかわかんないのが多いんだよね。この絵にもいろんな人がいろんなことをしているみたいなんだけど、みんな小さくて実物で確認するのはむずかしい。

 塔の構造はたぶん下から螺旋状の通路が上に向かってずっとつづいていて、会津のさざえ堂とか、表参道ヒルズとか(ちょっと違うか)、あんな感じみたい。塔の上部は雲の高さを越え、雲上部分は暗いトーンに彩色されている。

 それでこの絵からなにを感じるのかというと、当然なにを感じようが自由なんだけど、現代のわれわれには科学と技術の限界を自覚せよ、あるいは人類が手を出してはいけない聖域が存在するのだといっている気がする。まあ、ありきたりの解釈なんで、書くほどのこともないんだけど。ブルジュ・ハリファやドバイをみると、「これはマズいんじゃないの?」とおもうけど、その直感は案外正しいんじゃないかな。

 直接ことばで説かれるのと、アレゴリーとして絵画や物語をとおして感じることは別の次元の体験なんだよね。見にいって損はしないとおもうよ。

 

再開の辞

 「再開する」というほどブログやっていたことはないけど(ほとんどまったくやってない)、再開にはちがいない。書かずにはいられないから書く。その季節が50歳にしておれにもやってきたらしい。本名で書くからにはそれなりの覚悟が必要だし、責任も生じる。いろんなリスクがあることは承知だがこれでいく。

 いままで人並み以上に雑多なものをインプットしてきたと自負しているので、これからはアウトプットに注力するつもりだ。さしあたって順序も脈絡も完成度も気にしない。懺悔にちかいものになるかもしれない。

 じぶんがなにをかんがえているのか、文章にしないとはっきり自覚できない人間なのだと気がついた。これにかぎらず、大事なことはとりかえしのつかないことになってから気づくものだ。と、いまさら気がづいているおれはバカなのか。バカだね、ほんとうに。

 おれは人との関係性を長続きさせることが苦手らしい。いままでの愚行や思い上がりをおもうといますぐ死んでしまいたくなる。マイペースとよくいわれるが、たしかになににつけ世間や他人がどう思おうが関係ねーよと思っている。だが他人の思惑を顧慮しないことと、他人の立場や気持ちに思いをめぐらせないことはちがう。まわりのだいじなだいじなひとたちへの思いやり。おれには決定的にそれが欠けていたんだ。

 そんなことくらい文章にしないとわからんのか、おまえは!! わからないんだよね、きっとおれは。もう人を傷つけたくない、いい人間になりたい。いつの日かだいじなひとたちにおもいがつたわるといいな。

 

 

 

 

グローバル化時代に求められる習いごと

 息子の通っている保育園の友だちはたいてい何か習いごとをしているようだ。いわゆる年中組なので、年齢でいえば4〜5歳になる。聞いている範囲では内容はさまざまで、水泳などの運動系、音楽などの芸術系、英語などのお勉強系や、あるいは小学校お受験準備系なんてのもあるんだろうか。

 平日は朝8時半から18時半まで、10時間以上たっぷり保育園に預けっぱなしのわが家では、いまのところ週末まで息子を決まったスケジュールで拘束する気にはなれないでいる。なかなか思うようにはいかないけど、休みの日ぐらいはできるだけ一緒にいたいしね。でも中にはかけ持ちで教室から教室へと駆けめぐり、なおかつ宿題まで課されてる子もいるらしい。グローバル化の時代に世界で活躍して金持ちに仕え、日本という国を犠牲にしてでも自己利益を追求し、いざとなれば外国へ逃げるという、”世界で通用するグローバルリーダー”にでもしたいのでしょうかね。

 その辺をいっぱい駆けまわって、歌を歌って、転んでワーワー泣いて、虫を取って、本を浴びるほどいっぱい読んで、友だちとケンカして、あまり薦めたくないけどTVで戦隊ものを見て、近所の人たちに元気にあいさつして、いい音楽を聴いて、まともな食べ物をたくさん食べて、夜はぐっすり寝る。そんなんでいいと思っている。政財界や文部省が期待する人間にはあまりなりそうもないけど。

 

 

マーロウ再び

 小説の映像化を評価する場合、”原作とは違う”ということを理由に非難をする場合が多い。原作ファンにしてみればそう言いたくなる気持ちはわかるけど、映像作品はまずそれ自身として評価するべきだ。NHK版「ロング・グッドバイ」全5回が完結した。今回は独立した映像作品としての評価ではなく、あえて原作との比較をしてみたい。

 

 何でわざわざ火中の栗を拾うようなことをするのかと尋ねられたときの主人公の答えをくらべてみる。

 「これが俺の闘い方なんだ」(ドラマの主人公、浅野忠信

 「私はロマンティックなんだよ、バーニー。夜中に誰かが泣く声が聞えると、いったい何だろうと思って足を運んでみる。そんなことをしたって一文にもならない。常識を備えた人間なら、窓を閉めてテレビの音量を上げる。あるいはアクセルを踏み込んで、さっさとどこか遠くに行ってしまう。他人のトラブルには関わり合わないようにつとめる。関わりなんか持ったら、つまらないとばっちりを食うだけだけだからね。最後にテリー・レノックスに会ったとき、我々は私が作ったコーヒーをうちで一緒に飲み、煙草を吸った。そして彼が死んだことを知ったとき、私はキッチンに行ってコーヒーを作り、彼のためにカップに注いでやった。そして彼のために煙草を一本つけてやった。コーヒーが冷めて、煙草が燃え尽きたとき、私は彼におやすみを言った。そんなことをやっても一文にもならない。君ならそんなことをしないだろう。だから君は優秀な警官であり、私はしがない私立探偵なんだ」(原作の主人公、フィリップ・マーロウ

 

 主人公を駆り立てる動機が違う。浅野のセリフでは、殺された女の父親である有力政治家原田平蔵(あるいは警察)に象徴される悪との”闘い”が重視されている。しかしその闘いの裏には、ヤツを葬り去ってもすぐ第2の原田が出てくるだけだ、という諦念があるのだが。全体としても綾野剛(原作ではテリー・レノックス)との友情という面よりも、小雪との男女の絡みが描写の中心になっている。確かに浅野には浅野なりの行動原則と信念と誇りがあることはわかる。でもそれだけに最後に綾野と再会したときに、生きていたことを素直に喜べない心情がいまひとつピンとこない。

 

 一方マーロウが何のために行動したのかといえば、これはもうあくまで一度は心を通い合わせたテリーへの友情に尽きるだろう。だからこそ最後にズタズタに整形をし、メキシコ人に成りすまして会いに来たテリーを、マーロウはどうしても許すことができなかった。君は俺を利用しただけなのかと。マーロウが知っていたテリーはメキシコで死んだのだ。

 

 

 

 

 

   

 

寿司屋危うし

 東京の都心部で働くわれわれにとって屋台、というか、車で売りにくる移動販売の弁当屋は、時に昼メシ問題の救世主だったりする。安くて、うまくて、早くて、どこで食べるのも自由で、特に天気の良い初夏や秋口に公園などで食べるのは人生における小さな幸せである。

 ところがである。5月21日付朝日新聞夕刊によると、都議会のセンセイがたが、よりによってこの弁当屋の規制強化へと動いている。「食中毒の報告はないが、衛生面を考えると好ましくない」そうである。政治家の先生方というのは「みんなのためになることは頼まれたってやらないけど、人民へのいやがらせなら率先して実行する」という確固たる信念をお待ちなのだろうか。

 レバ刺しを禁止し、屋台を追っ払い、次はいっそのこと刺し身の禁止にまで踏み込んでみますか?「衛生面を考えると好ましくない」のは間違いないもん。でもオバマ大統領がまた来日して、「この前シンゾーと行ったすきやばし次郎にまた行きたい」って言われたらどうするのかね。断言するけどヤツらは絶対にあわてて法律を元にもどすと思うよ。石原閣下や猪瀬や舛添に票を投じる都民のレベルにふさわしい議員たちだと言われればそのとおりなんだけどね。

 

 

フィリップ・マーロウを日本人が演じるなら

 レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ=長いお別れ」を戦後間もない日本を舞台に翻案した5回シリーズが、NHKで放映されている。主人公のフィリップ・マーロウ浅野忠信。うちの奥さんは浅野君のマーロウがけっこう気に入っているようだが、どんなもんだろうか。原作の設定が42歳なので、年齢的な違和感はないけどね。これまでの映画化の例を見てみよう。

 マーロウ役でまず頭に浮かんでくるのは、ハワード・ホークス監督「三つ数えろ」のハンフリー・ボガート。まず背が低い(一説によると173センチ)ので、大男でタフというマーロウ像にはちょっと違和感がある。「さらば愛しき女よ」のロバート・ミッチャムにいたってはもう60歳間近になっていたので、中年前期というかもう老年初期に差し掛かっていた。ミッチャムは素晴らしい役者とはいえ、年金支給が視野に入ってきたマーロウっていうのも興ざめだよね。チャンドラー本人はケイリー・グラントをイメージしていたらしいけど、やらせてみたら意外といいのかな。

 その点、ロバート・アルトマン監督「ロング・グッドバイ」のエリオット・グールドは、どんな時でも減らず口をたたくひねくれ者だけど、友情には厚く感傷的なマーロウ像を好演していて、一番気に入っている。日本人なら松田優作が昔TVシリーズの「探偵物語」で”工藤ちゃん”を演じていたのを思い出すけど、優作兄ィではちょいとハードすぎる。いまなら阿部寛とかになるんだろうか。

 でも僕が見てみたいのは何といっても佐分利信のマーロウですね。あの地獄の底から響いてくるような声で「おれはロマンチックな人間なんだ」、「警官にさよならを言う方法はまだ見つかっていない」ってキメキメにキメたセリフを吐いてほしい。もちろん監督は巨匠小津安二郎、舞台は北鎌倉で。でもヒロインは誰にすればいいんだろうか。