マーロウ再び

 小説の映像化を評価する場合、”原作とは違う”ということを理由に非難をする場合が多い。原作ファンにしてみればそう言いたくなる気持ちはわかるけど、映像作品はまずそれ自身として評価するべきだ。NHK版「ロング・グッドバイ」全5回が完結した。今回は独立した映像作品としての評価ではなく、あえて原作との比較をしてみたい。

 

 何でわざわざ火中の栗を拾うようなことをするのかと尋ねられたときの主人公の答えをくらべてみる。

 「これが俺の闘い方なんだ」(ドラマの主人公、浅野忠信

 「私はロマンティックなんだよ、バーニー。夜中に誰かが泣く声が聞えると、いったい何だろうと思って足を運んでみる。そんなことをしたって一文にもならない。常識を備えた人間なら、窓を閉めてテレビの音量を上げる。あるいはアクセルを踏み込んで、さっさとどこか遠くに行ってしまう。他人のトラブルには関わり合わないようにつとめる。関わりなんか持ったら、つまらないとばっちりを食うだけだけだからね。最後にテリー・レノックスに会ったとき、我々は私が作ったコーヒーをうちで一緒に飲み、煙草を吸った。そして彼が死んだことを知ったとき、私はキッチンに行ってコーヒーを作り、彼のためにカップに注いでやった。そして彼のために煙草を一本つけてやった。コーヒーが冷めて、煙草が燃え尽きたとき、私は彼におやすみを言った。そんなことをやっても一文にもならない。君ならそんなことをしないだろう。だから君は優秀な警官であり、私はしがない私立探偵なんだ」(原作の主人公、フィリップ・マーロウ

 

 主人公を駆り立てる動機が違う。浅野のセリフでは、殺された女の父親である有力政治家原田平蔵(あるいは警察)に象徴される悪との”闘い”が重視されている。しかしその闘いの裏には、ヤツを葬り去ってもすぐ第2の原田が出てくるだけだ、という諦念があるのだが。全体としても綾野剛(原作ではテリー・レノックス)との友情という面よりも、小雪との男女の絡みが描写の中心になっている。確かに浅野には浅野なりの行動原則と信念と誇りがあることはわかる。でもそれだけに最後に綾野と再会したときに、生きていたことを素直に喜べない心情がいまひとつピンとこない。

 

 一方マーロウが何のために行動したのかといえば、これはもうあくまで一度は心を通い合わせたテリーへの友情に尽きるだろう。だからこそ最後にズタズタに整形をし、メキシコ人に成りすまして会いに来たテリーを、マーロウはどうしても許すことができなかった。君は俺を利用しただけなのかと。マーロウが知っていたテリーはメキシコで死んだのだ。